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うちの施主のおかしな注文
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京都で「おかしな人やんな」と言われたら、「面白い人ですね」「変わった人ですね」のいずれかを意味する。これは、「施主のおかしな注文」をエネルギー源にして活躍する新進建築家、中村安奈と神野太陽(イースタン建築設計事務所)の住宅設計物語である。
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マップ・オブ・イースタン
地図と全地球測位システム(GPS)

私たちはこのコラムによく地図を出す。今回は、地図について話す。
話す内容を、目次にして、進めていこう。

1ページ:地図と全地球測位システム(GPS)

2ページ:見知らぬ場所と私の場所

3ページ:見ることと歩くこと

今回、これまでと違う方法で新しい地図をつくった。これは、上空から、日本を見ている。私たちが主に活動している場所の山々が、立体的に表現してある。遠くに北海道が見える。山に囲まれているのが琵琶湖。特徴ある形だ

「水平の家」のコラムのときに出した地図。この山々を抜けて建築の現場へ行った(「この場所で僕は死のう」

 私たちがこの地図をつくってきた理由は、読者が地形というものの感覚がわかったほうが、コラムの各論の物語が伝わりやすいと考えたからである。この地図は、私たちの土地の見方を示す“道具”である。だれも、自分に具(そな)わっているものだとは思わない種類の。
 なぜかと言えば、この地図は、私たちが建築の現場へ足を運ぶときに、山々をくぐって行くそのときに、地形が私たちに吹き込んだ感覚なのだ。いつのまにか、地形がその考えを私たちの身体に置いたのだ。それを自己の思考の道具と考える者は少ない。

 そんな経験は、例えば、旅に行った見知らぬ土地で、もの思いに黙するという感覚に近い。いつもとは違う場所へ行くと、なにかから脱出しようする、また脱出してしまったもの悲しさを思って、その違う状況のなかで、いつもと違う夢を見る。
 普段、自分を囲んでいる物がなにもない、言ってみれば、感じたことのない風波に驚かされて、聴こえてくる、解放、のようなもの。


「餅と酒と海」のコラムのときに出した地図。大阪・岸和田から琵琶湖を望む

岐阜県の高賀山(美濃)から琵琶湖を望む

 この地図は、神がいそうな感じがする。地形の起伏とその輝き、広大な山波の淋しい広がりが、私たちの孤独に及ぼしてくる雰囲気がある。

 ここは、近畿圏という見慣れた範囲内なのに、ごうごうと海鳴りがする。恐ろしげですらある。
 このような馴染みのない地形のなかに、あなたの家があるのだということをまじめに伝えたかった。

 私たちは以下のように考えている。
 ・夢は土地と関係している。
 ・人間の注文は地形の雰囲気に従う。
 ・建築はそれと同じ起源を持っている。

人と場所と建築、その関係は、おそらく、一つの円である。この円環のなかに小さな“わたし”がいて、いろいろ考えているに違いない

 この円に組んだ文字列は、人が地形に見出す輝きである。私たちは、地形が孤独に及ぼしてくる幻想の影響下にある。

一つ上の文字の円環から、「夢」と「土地」という文字をとりだして、そこに窓と道という開口をあけてみた。頭に浮かぶ考え、確かにあるがぐるぐる回ってまとまらない言葉、見たいもの、歩いてゆくとういう感覚、内部、外部、開口、それらを、象徴した図

 こうして、ふたりの人間(施主と建築家、あなたと私)をつなぐ、開口と道をつくった。

 地図を考えれば、インターネットが提示している現代の状況をはしょるわけにはいかない。

 今、ネット上の、全地球測位システム(GPS)が表示する航空写真で、世界中の地形が“見える”。パキスタンの荒涼とした砂漠から、モルジブ海上沖へ移動し、イエメンの海峡まで北上するのに、マウスにのせた“人差し指”を、2、3度動かせば足りる。
 そんな時代に、地図などを描いて、私たちは一体なにをやっているんだろうか。

 この状況には良い面とつらい面がある。

 まず、良い面は、こんな話。…この夏から秋にかけて、ここで話してきた私たちの建築は、どれも、世界中のネット上を駆け巡った。

 「紋所の家」は、チュニジアの建築の高等学校で、授業に使われている。ブルガリアのオンライン・マガジンを、おそらく一人で主宰しているだろう、レジスタンスのような風貌の男が、「水平の家」を取り上げた。不思議なことに、そこからアメリカ中へ広まっていった。ギリシャの女性詩人が、「スリットの家」を詩的な文章で綴ると、それがロンドンに飛び火した。欧州へ、南米へ、アジアへ。イラクの女性は、「西八条邸彩丹」を愛していると、バラ絵文字のラブレターを送ってくる。模型をつくるから図面が欲しいと書き添えてある。バングラディッシュの男は、僕の国は通信が制御されている、どうかplease sir send us some references and books. 本を送って欲しい。

 同じ民族ばかりでない、異人種でも共感できる、ある種の“共有”というものが新しい次元で起こったことは確かだ。自分の感覚を信じる個人が集まる、見えないつながり。

 その一方で、つらい面がある。私たちの小さな部屋とドイツのケルンを2分でつないでくれる時代に、こんな地図など描いて、一体なんの意味があるっていうんだ、と、そう思うときはないか?

 突然そういう気持ちに襲われる。遠景~中景~近景まで、東京の航空写真からだれかの玄関ポストまで、ストリートビューにのって、いたるところの(抽象的な)まなざしをダウンロードする世界。自分の行く先を委(ゆだ)ねたくなるナビゲーター(同乗者)は、どちらかと言えば、人間ではないだろう。
 現地? そんな観念すら、もうないの?
 この感じは2つある。

 “なにか足りない”
 “おいてけぼりにされる”

 この感じは、ストリートビューやセカイカメラに人々が持つものだ。まるで、思い出の場所の変わり果てた姿とか、昔の恋人の今の姿とか、想像していた場所の真実の姿とか、“ほんとうの自分”とかを、垣間見てしまったときにおこるのと同じ。

 喪失感と焦り。相反する。提示されている状況と、私たちが現実に感じているものの見方が合わない。それが極限まできていて深い修正を迫っている。(このままじゃいやだ)それなら、それが少しでも修正できるなら、“どこで?”と、問わなければならない。

 そうして、私たちは明日も、建築を建てる“敷地へ”、足を運びたいと思う。


「餅と酒と海」のコラムのときに出した地図。これは琵琶湖西岸の“ある場所”から見た。眼の前にあるものから、広大なところまで、人の眼はなにを見ているだろうか(「餅と酒と海」



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